勝尾寺の由来

本寺の草創は奈良末期に遡る。古流記によれば創建は神亀四年(727)、善仲、善算の双子兄弟が草庵を構え修業されたことに始まる。そののち天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子開成が二師出逢い止住し、宝亀六年(775)七月十三日般若台に大般若経六百巻を理経して一寺を建て、彌勒寺と号し、開山に至る。開山堂には、善仲、善算と開成皇子の木像が安置され、毎年十月二十九日は宮内庁と本寺で御正辰祭が勤められる。また彌勒寺当時、本堂のあった場所は、いま彌勒菩薩の大仏が大阪平野を見下ろし鎮座されている。

 宝亀十一年(780)妙観という名の比丘が彌勒寺を訪ね、七月十八日より八月十八日の間に、白檀香木をもって身丈八尺の十一面千手観音を彫刻した。これが当山のご本尊である。

 かの「徒然草」で吉田兼好は「よき細工は、少しにぶき刀をつかうといふ。妙観が刀はいたくたたず―――」と記しているが、稀代の名工であった妙観は、観音の化身と信じられ、観音縁日を十八日と定めたるは当本尊より始まる。 故に西國霊場第二十三番札所でもあり、妙観が刻んだ香木は、今も当山に安置されている。

 六代座主の行巡上人は、清和天皇の玉体安隠を祈って効験があったことから、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」 の寺号を帝より賜ったが、本寺では「王」を「尾」にひかえ、勝尾寺と号し、勝運の寺として信仰されて来た。なお清和帝の勅額は、国道171号線勝尾寺口の南側の大鳥居に掲げられており、この大鳥居は日本最古の町石の起点でもある。

 以後永寿の乱に大講堂や伽藍をことごとく焼失したが、建久六年(1195)源頼朝の命により、梶原景時、熊谷直実らが力をつくして再建した。その供養塔及び頼朝再建の薬師堂は当山最古の建造物として今に残っている。なお当山の薬師三尊像は開成皇子一刀三礼の作とされる秘佛(国重文)であり医学を志す人々の信仰を得ている。本堂及び仁王門 (山門)は豊臣秀頼により再建された。

 開成皇子が御感得になった日本最初三宝荒神は、千有余年にわたり悪事災難をはらい勝運を招く日本三大荒神のはらい荒神としてその威神力を誇る。また当山第四代座主の証如上人の建立になる二階堂では、法然上人が讃岐からの帰途、証如上人の遺徳をしのび四年間留錫され念佛三昧の行に入られた。上人は承元四年(1210)三月二十一日、二階堂で善導大師夢定御会見の奇瑞を得られ、本尊はその折の両祖対面の尊影を映した壁板であって、念仏三昧すれば 善導大師の御影を拝することが出来る。依って圓光大師(法然上人)二十五霊場の第五番霊場として存在する。

 以上の如く本寺が清和帝の信仰を得て臨幸を仰いだことは、後の勝尾寺の歴史に大きな影響を与え、護法神の一つに八幡大菩薩を勧請し、清和源氏の流れをくむ鎌倉幕府や室町幕府の将軍が本寺に帰依した。故に広大な寺領を有し、寺域の結界には石蔵が残り史跡となっている。その石蔵の中の八体の仏(四天王・四大明王)は八百年間本寺を守護し、昭和の代に初めて発掘された。この八天像及び光明皇后直筆の法華経、勝尾寺文書等国宝文化財の数々が当山に残さ れている。

 勝尾寺の歴史を今語り尽くせないが、前述の開山三師の発願の核となったのが大般若経であり、彌勒寺と号したことから、やはりその背景をなす思想は彌勒信仰であった。彌勒菩薩は釈迦の教えにもれた衆生の為に五十六億七千万年の後に現世に下生してあまねく救済されるというが、この末法思想は、まさに今の世の中に求められている仏と思える。

もし人類が今世紀及び来たる新世紀に、何がしの不安と恐怖を感じ、またそれを末世の訪れとするならば、今こそまさに五十六億七千万年の時として彌勒菩薩が出現されるであろう。ここに勝尾寺彌勒菩薩が、期を同じくして、忽然と現れたもうた事こそ不思議な、平成の勝尾寺の今日である。

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